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元外交官「マサオの海外体験記」

諸外国での体験から、風土、文化及び歴史にわたる興味ある事実を写真とともに掲載したい。写真は原則的にサムネイル・サイズでアップしているので、画像の面上でクリックすれば拡大されます。なお、許可なく画像の複製を禁じます。)

日本人の心―望郷の思いと夕焼け

日本人の心―望郷の想いと夕焼け
2020年1月29日 記

今朝、テレビをつけてみると、サントドミンゴが最後のアンコールに応えて日本の歌を歌い拍手喝さいを浴びているシーンが眼に入った。世界の三大テノール歌手、ドミンゴが来日公演で昨日都内のコンサートで「ウサギ追いし彼の山・・・忘れがたきふるさと」(ふるさとの歌)を歌っているのだった。
ニュース番組のワンシーンであるためすぐ消えてしまったが、
ドミンゴが2011年の東日本大震災直後に来日した際、「ふるさと」を熱唱し、被災者だけでなく日本人の心を癒した感動的なコンサートとして評判が良かったことを思い出した。サントドミンゴは長年の日本公演を通じて故郷(ふるさと)を歌えば日本人は、郷愁感が高まり涙ぐむ人が多いことを体験的に知っているからこそ、アンコールにはこの曲を選ぶようになったのではないかと思っている。

手元の愛唱歌集を広げてみると、故郷に関する歌は、どこの国でも愛唱されているようだ。例えば、故郷の空(夕空晴れて・・)はスコットランド民謡であり、故郷の人々(遥かなるスワニー川・・・)は米国のフォークソングであり、故郷を離るる歌(園のさゆり撫子垣根・・)はドイツ民謡である。
しかし実際にその国に滞在してみると日本人ほど歌っていない事に気付く。
いずれにしても、日本人ほど望郷の歌が好きな国民はいないのではないかと思う。
体験的な結論である。
それでは、日本人の心の郷愁を誘う風景とは何か?
いろいろあると思うが、代表的なものはやはり夕焼けの景色だと思う。

前回述べたように、世界の美術館で日本ほど夕焼け景色が描かれているところはない。
最近、地方自治体も都庁や区役所、あるいは近郊の市役所の文化的な建物も高いタワービルが増えてきた。その屋上またはトップフローにはカメラを持って来る人達は夕方に増えてくる。外人も見かけるようになってきたが、外人はサンセットのタイミングを狙ってやってきたかと思うと、夕焼けを撮り終わるとさっさと帰る人が多い。こちらは余韻が残って夜景をも撮るようになる。

さて、もうすぐ2月に入る。
ちなみに、2月と3月の期間に千葉県で2度、チャンスが訪れる希少価値のある感動的な風景は何か?
カメラを趣味にしている人にとっては難問ではない。
正解は「ダイヤモンド富士」である。
2番目に掲載した写真は2016年2月16日に撮影したものである。前日の15日には、あいにく雨天で誰もダイヤモンド富士を捕らえた人はいなかった。
これまでの2,3年間でよく撮れた夕焼けの写真3枚を選びサムネイル版(画像の面上でタップすると拡大される。)で以下に掲載する。
(夕焼けの写真、千葉市のポートタワーから)
夕陽に映える東京湾


(富士山にかかる夕陽 3番瀬から)
1日遅れのゴールデン富士



(東京湾に沈む夕日―三番瀬から)
東京湾に沈む夕日


では、なぜ日本人は夕焼けが好きなのか?

哲学者山折哲雄は外国人学者から指摘されて初めて、夕焼けの景色に日本人は郷愁感や望郷の感を強く感じているとの話をその著書「日本人の宗教感覚」(NHKライブラリー)
にて紹介しているところ、その一部を書き出してみよう。
  
 東京における国際会議レセプションで外国人学者と日本の宗教問題に話題が及んだ際、日本の童謡「夕焼け小焼け」の歌詞     の中に日本人の仏教観が実によく表現されていると言われた。
   
最初の行で「夕焼け小焼けで日が暮れて」というのは、まさに落日の光景である。
山の端に沈む太陽、水平線の海のかなたに落ちていく太陽 によって夕焼けに映える空は日本人の郷愁を誘い,かつての日本人は仏教のいう極楽浄土のイメージを重ねてみていたのではないか..
   
2行目の「山のお寺の鐘がなる」というのは、日本の仏教は山岳仏教として発展してきていることはよく知られている。
大晦日にNHKが除夜の鐘を流し、比叡山など山のお寺の風景をクローズアップしているよう に 国民的な行事になっている。 
3行目の「お手々つないで皆帰ろう」というのは、文字通り子供達が両親のいるわが家に帰っていく情景を描いているが、これを少し深く読むと、親元を離れて都会に出てあくせく働いているが、故郷はどうなっているのか?本来帰るべきところに帰ろうではないかと望郷の想いを歌っているようにも聞こえてくる。
  
 最後の1行「カラスと一緒に帰りましょう」はどうでしょうか。意味深な表現ですね。
 つまり、人間もカラスなど動物たちも一緒に帰るべきところに帰るのだ。自然との共生感覚が表れている。日本の仏教の背後に宿   っている自然観と生命感が、あるいは無常感がこの童謡に見事に歌いこまれている。



以上が山折氏の感想であるが、同氏はもう一つ木下順二の名作「夕鶴」の戯曲(鶴の恩返しとして高校の教科書にも掲載されていた)にも言及している。山本安英が主人公のつうを演じ1037回のロングラン(1949年から1986年の37年間)の記録を残したことで有名。
しかし,現代の若い世代の若者はこの名作を知らない人が増えているとのことなので、そのあらすじを、次の通り簡潔にまとめてみた。

天界の鶴が地上に舞い降りてきたが罠にかかってもがいている時、通りかかった若者に助けられた。数日後、彼(おひょう)の元へ「宿をお借りしたい」とひとりの美しい娘が訪ねてきました。娘はそのまま、おひょうの家に居つき、身のまわりの世話をすることになった。
数日後、娘が「機織り小屋がほしい」と言うので、おひょうが望みを叶えてやると、「錦を織るので、これから7日間決して立ち入らないように」と告げて、小屋にこもってしまいました。
完成した錦織は素晴らしい出来映えで、お殿様に千両で買われ、もう一反所望されたが,
娘は嫌がらず小屋にこもり熱心に機を織る音が聞こえてきました。若者おひょうは小屋の中の様子が気になって仕方ありません。ついに耐えられず覗いてしまうと、そこには、もう随分羽の抜けてしまった鶴が懸命に錦を織っている姿があったのです。

その後、やつれた姿で出てきた娘は「実は私は、以前助けていただいた鶴です。御恩を返したいたいという気持ちで人間に化けていましたが、もう一緒にはいられません」と告げ、天空へと飛び立っていくというストーリーである。

オペラ化された最後の場面で、つうは人間の生き方に絶望したかのように赤い赤い夕焼けの空に向かって飛び立っていったのです。
作者が何を暗示したのか?申すまでもないと結んでいる。

もちろん極楽浄土の方向へ飛んで行ったことを暗示していると思われる。

考えてみれば、歴史的に見て、6世紀半ばごろから、19世紀半ば過ぎまで1300年間にわが国で知られている仏教は全て中国から輸入したものに日本的要素を若干加味したものに他ならない。何故、極楽浄土が西方向なのかについては、仏教の起原がインドにあることから、中国において西方の阿弥陀仏のいる世界、極楽浄土への往生を願うことが中国で流行し、それが日本にも伝えられたからである。(「仏教 渡辺照弘 著 岩波新書 ご参照のこと」
  (次回に続く)
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  1. 2020/01/29(水) 23:43:48|
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日本人の心ー落日信仰

日本人の心―落日信仰
令和2年1月3日

新年あけましておめでとうございます。

いつものブログでは文章が主で写真は従の存在ですが、正月に良い写真を撮ろうと思い、今日車で出かけました。正月によく観られる代表的なのは、やはり、富士山である。しかも朝日に輝く富士山である。しかしながら、朝寝坊をしてしまったので、時間的には夕陽に染まる富士山に選択肢が絞られてきた。次にどこから富士山を落日寸前の時刻にとれるか?この選択肢は幅広いが、距離的には東京と千葉県に限られる。
これまで10年以上風景写真を撮ってきて、案外近いところにも穴場があることに気が付いてきた。
ともかく本日3が日の午後出かけて間に合ったのは三番瀬である。
東京湾に沈む夕日を狙って出かけてちょうど間に合い、2時間かけて百枚以上シャッターを切った。
そのうちの写真の代表作を絞れば次の3枚となる。
(画像の面上でクリックすれば写真が拡大されます。)
夕焼けに染まる富士山

東京湾に沈む夕日

日没前の浜辺の小鳥
(注.当日はこの野鳥が多く飛び跳ねていた。3番瀬は浅瀬が広いので野鳥が集まるところとして有名です。この画像の野鳥は「ハマシギ」と推定される。写真が好評なので2枚追加しました)
餌探しに夢中で邪魔者も目に入らず

富士山を背に朱色に染まる3番瀬



夕陽に染まる富士山がよく撮れて満足した。
ところで、
「日本人の心」についてシャープな分析をしている山折哲雄は
「日本には落日を歌った歌が古代から現代にかけて、実に多い。絵にしても、平安時代の大和絵から現代の東山魁夷やシルクロードを描いた平山郁夫にしても夕焼けの空が実に多い。間違いなく日本人は夕焼け信仰で千年、千5百年生活してきたのだ」
と述べている。

実際、東京や近郊のフォト展によく出かけるが、夕焼けを描いた写真が必ずといってよいほど展示されている。
欧米に出かけても素晴らしい落日がみられる。グランドキャニオンの夕焼けはスケールが大きく、ナイル川も素晴らしい。ドイツのライン川や、フランスのモンサンミッシェル,スイスのモンブランやアイガー北壁、ネパールのエヴェレストなども日本では見られない荘厳さが感じられる。。
しかし不思議なことにルーブル美術館やシカゴ美術館でもこのような山と落日を描いた絵は極めて少ない。これは何故か?
今日は写真が中心の筈だったのでこの辺でペンを置く。いやキー叩きをやめる。
(了)
  1. 2020/01/03(金) 23:49:10|
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INF全廃に至る成功要因―時代的背景とロン・ヤス親書から読み解くー

INF(中距離核ミサイル)全面的撤去に至る成功要因―時代的背景とロン・ヤス親書から読み解くー

2019.12.12 記

ロン・ヤス間に重要な親書が往来した時代的背景

前回、第9回先進国首脳会議が1983年5月、米国のウイリアムズバーグで開催された際、ソ連が、命中精度が格段に優れたSS20という中距離核ミサイルを中欧と日本を含む極東目がけて配備している危機をいかに解決するかにつき討議されたことを説明した。

このサミットにおいても、その後の米ソ交渉においても、中曽根総理の「ソ連を交渉に引き出すためにはNATOも相手と同様の措置を講じる。つまり、ソ連向けの米国製パーシングⅡをヨーロッパに配備すべきだ。」という考え方に同調し、NATO内部も次第に結束を固めるようになってきた。
実際にNATOはパーシングⅡをNATO本部が所在するベルギーを中心に中欧に配備を進めていった。
(写真―SS20の配備地域と射程)(画像の面をクリックすると拡大画面になります)
SS20配備地域と射程距離



それに時代の潮流も西側陣営に味方した。
1980年代には東西の指導者交代に時期にあたり、なぜか米国と日本、それに西欧主要国が長期政権で足並みをそろえた来たのである。

年表を調べてみよう。
米国では1984年11月にはレーガン大統領が圧倒的な地滑り勝利で政権基盤が強化され、89年1月まで2期8年、英国ではサッチャー首相が79年5月から90年11月まで、西独(後にドイツ統一)ではコール首相が82年から90年代後半まで、フランスのミッテラン大統領は1981年5月から中曽根総理は1982年11月から89年11月までとそれぞれの指導者が長期政権を維持した。
これにより、主要国の指導者が安全保障面ではコミュニケーションも良く、息の合った協調性を強めることが出来た。

ソ連では、これまでとは違って、80年代に新旧指導者の交代がなぜか静かに進行した。
82年11月に登場したアンドロポフ共産党書記長は地方出身で若手の政治家ゴルバチョフに目をつけ中央の政治局員へ引き上げ、登用した。
ゴルバチョフは明るい性格で人柄も良く多くの人に好かれた。
政治局員になってから初めて英国を訪問し、サッチャー首相と会談したことがある
。会談後サッチャーは「ゴルバチョフ氏は気に入った。彼なら交渉相手にできる」と語ったそうだが、サッチャーはゴルバチョフの人物像にイデオロギー臭を感じさせない、現実的なリアリストとしての交渉相手を見出したのではないか。
ともかくも、ゴルバチョフという新しい柔軟思考の持ち主の才能を持つ若き指導者が政治局員に登場してきたことは、ソ連共産党幹部もソ連社会主義経済の行き詰まりを痛感していたに違いない。
ちなみに、筆者と交流のあった金森久雄は「2000年には中国経済の方がソ連経済より大きくなるのではないか」と予測していた。(毎日「エコノミスト誌」85.7.30号)
チェルネンコ時代末期の84年12月

アンドロポフは在任1年3ケ月で亡くなり、後任のチェルネンコも病身で在任13ケ月で
1985年3月に死亡した。3人とも老人であった。後任にはだれが考えても若い世代の選択へ傾いた。
ゴルバチョフは当時54歳で、当時の政治局員では珍しい大学出(モスクワ大学法学部)であった。政治局で新しい書記長後継者の指名はチェルネンコ死去の公表から僅か4時間後でゴルバチョフが任命された。

ご存知のように、ゴルバチョフは内政ではペレストロイカ(改革)とグラスノチ(情報公開)を断行し、外交面では「新思考外交」(アフガンからの撤退、東欧の民主化とドイツ統一の容認、核兵器削減に積極的姿勢)を展開した。
1985年7月冷戦の象徴であったグロムイコ外相を最高会議幹部会議長に棚上げし、後任にジョージア出身の新人シュワルナゼを指名し、冷戦終結への道筋をつけた。

以上の動きを後から考えてみると、1980年代前半に、東西関係の基本的な変質というか地殻変動の動きを引っ張る役者が揃ったことになる。
ゴルバチョフは次々と新機軸を打ち出し、外交面においても軍縮問題につきNATOと協議したいと早速申し入れ、NATO同盟国首脳たちは「表面上だけの平和攻勢ではないか?」と疑心暗鬼になったほどである。

冷戦時代の当時、NATOとソ連の間には厚く高い「鉄のカーテン」が存在し、ソ連国内でも外国の情報は非常に少なかったようだ。
ゴルバチョフでさえ、鉄のカーテンに遮られていたことを次のごとく述懐している。

「地方共産党幹部時代は西側の様子を知ろうとしても全く情報は皆無に近くどのような世界になっているのか知らなかった。中央の幹部になり、英国に出かけてサッチャー首相に直接会ってみたら話し合いはスムーズに進んだ。ソ連外務省は外交を独占し西側は決して歩み寄りはしないと説明されていたが。」(ゴルバチョフ回想録1996年2月新潮社)

ゴルバチョフは西側の首脳とも積極的に会うように努め、11月にはジュネーブへ出かけレーガンと首脳会談を開いた。この米ソ首脳会談は何と6年半ぶりのものであり、当時の新聞によれば、重要問題では「深刻な意見の相違が残ったが種々のレベルで定期的な対話を進めることに合意した。」旨報道された。

ここに、米国側においてもレーガンの「新冷戦外交」は終わリを告げたのである。
ご存知のように「新冷戦戦略」においてレーガンは「強いアメリカ」をスローガンに「ソ連の脅威」を訴えるとともに、核戦争はあり得るとの前提に、大統領就任の年、81年10月には「米核戦略強化計画」、83年3月には、SDI(戦略防衛構想―ミサイル迎撃防衛システム構想)を打ち上げた。

しかしながら、84年11月再選されるとレーガンは「タカ派」色を弱めた。欧州を中心とした反核運動やオルロフ・パルメ スエーデン首相がまとめた「パルメ報告」による「共通の安全保障―相手の安全保障にも配慮する政策」などの動向に留意したものと考えられる。
更には、米政府内の主導権がワインバーガー国防長官からジョージシュルツ国務長官に移った要因が大きいと思われる。
このような背景の中で日米同盟関係の強度を反映してロン・ヤス関係も親密化した。
1986年1月15日シュヴァルナゼソ連外相が来日し三日間日ソ外相間定期協議が開催され、18日同外相は中曽根総理を表敬訪問した。

興味あるのは、1月15日、モスクワにおいて、ゴルバチョフが国営テレビを通じて軍縮に関する声明 「20世紀末までに核兵器を段階的に廃絶することを提案」を発表したことである。
ゴルバチョフも芸が細かいではないか!

>中曽根総理とレーガン大統領との往復書簡</span>

以上の如き国際情勢の中で日米外務省の公式チャンネルを通じて、日米両首脳は数多くの親書(当時極秘で最近公開された)を交換したところ、今回の主題たる、INF(Intermediate-Range Nuclear Forces )(中距離核戦力)に関する部分を抜粋して要点を付してみた。

なお、この往復書簡の直後、1986年2月24日レーガン大統領は1月15日付ゴルバチョフソ連書記長の声明を引用して、「1980年代中にINFを全廃する等の提案をした旨発表した。
レーガンもまた、芸が細かいではないか!!

① レーガンより中曽根宛親書(1986年2月6日付の2ページ目)
(写真を入れる)
レーガンより中曽根宛親書(2月6日付)

イ. 最近のソ連軍縮提案に対して、START(戦略核兵器)の分野においては50%削減の原則を再確認している。
ロ. INFの分野においては、最善の解決策として、米ソ共に全面的に廃絶すべきとの考え方を堅持している。しかしながら、ソ連側がこのゼロ・ゼロオプションにすぐに動くことを拒否しているので、先ずは、欧州地域にソ連が配備しているSS20についてはゼロ、つまり100%、アジア地域に配備しているSS20については、当初は、少なくとも50%削減し、最終的には、ゼロ、つまり100%廃絶するとの考えに傾いてきている。
ハ.
② 中曽根よりレーガン宛親書(1986年2月10日付2及び3ページ目)
(写真をいれる)
中曾根よりレーガン宛2月10日ー2P
中曾根よりレーガン宛2月10日3p






イ. 「欧州ゼロ・アジア50%」という考え方にはアジアの安全保障及び日米同盟関係の利益との関連において、慎重な考慮を要する点が含まれている。

ロ. 欧州のINF全廃を先行させ、アジアのINFの廃棄を後回しにする場合には、アジアに残存するソ連のINFの廃棄を実現するための取引材料如何といった点に論議が及びこれをめぐって、FBS(前方展開システム)、SLCM(海上発射巡航ミサイル) 更にはNCND(核兵器の存否について肯定も否定もしない政策)など米国の政策が論じられるような状況が生じてくる。
その場合、問題は日米安保体制の信頼性、更には日米同盟関係の根幹に影響が及び、米国の北西太平洋地域における安全保障戦略が支障を蒙る現実の危険性があるように思われる.

③ レーガンより中曽根宛親書(1986年2月22日付4ページ目)
(写真をいれる)
 
レーガンより中曽根宛親書(2月22日)第4ページ




イ. INF問題に関して、我々はゴルバチョフに対して1989年末までに欧州及びアジアの両方において、ゼロ・ゼロの結果、つまりグローバルに全廃する提案を行うつもりです。
ロ. 我々の広範囲にわたる協議によって我々が的確な道を進んでいるとの私の信念強めさせてくれたこと及び貴方の協力とサポートに対し深甚の謝意を表したい。


米ソ首脳INF全廃条約に調印

日米首脳が重要な親書を交わした同じ年の1986年10月レーガン大統領とゴルバチョフ書記長がアイスランドのレイキャビックでの歴史的な会談を開催した。議題は東欧問題と軍縮問題であったが意見の一致は困難で物別れに終わった。
しかしながら、レーガンはゴルバチョフが交渉に値する人物だという確証を得ることが出来たようだ。

だからこそ、翌年の1987年12月9日、欧州とアジア地域を含む「グローバルなゼロ・ゼロオプション」に米ソ首脳間で合意が成立した。
米ソ首脳が調印したINF(中距離核戦力)条約では、米国製の射程距離1000~5500キロのパーシングⅡと地上発射巡航核ミサイルソ連製のSS20などの全廃を決めた。
同条約は88年6月1日レーガンが訪ソ連の際、批准書の交換により同日発効した。

廃棄弾頭は約4100発と言われており、ゴルバチョフ書記長としては、核兵器製造のための軍需産業に資金が流れるよりもりも経済改革に資金を投じた方がソ連の将来にプラスになるとの計算が働いたことことは回想録を読めば十分推論できると思う。
特に相互的手法により、米ソ両陣営が相互に「国家の平等を基礎とする国際関係において対等性と公正さを確保されれば、」上記の如き同種類、同質のミサイルを廃棄しても米ソの力関係はソ連に不利になるわけではないと読んだに違いない。

レーガンは回想録「An American Life」の中でゴルバチョフに対して,極めて親密な感情を抱いていたこと、改革を急速に断行するゴルバチョフ政権の行方や本人の生命の危険を懸念していたことなどを述べているようである。このような人間関係の円滑さが外交問題解決のプラス要因になることは「ロンヤス関係」でも実証されているように、「レーガン・ゴルビー関係」でも大きなプラス効果になった事実は歴史にも残るであろう。
本件原稿を書くプロセスで種々資料を探し読んでいるうちに筆者もレーガンだけでなく「芸の細かい」ゴルバチョフにも好感情を抱いた。
以上
(次回に続く)



  1. 2019/12/12(木) 13:42:57|
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中曾根康弘元総理の国際政治における発言力

中曽根康弘元総理の国際政治における発言力
2019.12.1 記
中曽根康弘元総理が逝去されたとのニュースに接したとき、シンガポールとシカゴの在勤時代に、仕事上VIPに対する便宜供与の関係でお会いした当時の暖かい人柄をまず思い出し涙があふれた。
(シカゴ当時の写真を入れる)
中曾根元総理と筆者





中曽根元総理は実に日本人離れした発信力のある国際政治家であった。

1982年11月総理に就任するや否や、まず韓国、次いで米国を訪問した。すなわち、83年1月11日訪韓し、全大統領と「新次元の日韓関係」を確認、1月17日には訪米し、レーガン大統領と会談「日米は太平洋を挟む運命共同体」であり、「ソ連の度重なる、バックファイヤー機による侵犯に対して日本列島を不沈空母化する」(ワシントンポスト)などと発言した。
これらの発言は決して思いつき発言ではなかった。
その証拠に帰国後、1月24日初の施政方針演説で、「戦後史の大きな転換期にある」と強調した。

つまり、当時中曽根総理の頭の中にあったのは、戦後米国占領による改革期の、日本は政治、外交、経済、社会、文化、教育などの分野で問題点と矛盾を抱えるに至ったとの認識があったものと考えられる。
この認識を踏まえてみると、(海外では国内と異なり、ゆっくりVIPとも雑談できる機会に恵まれる時がある)
中曾根康弘の政治手法が鮮明に表れたのが外交姿勢であったものと感じられた。
経済大国になった日本が、米国と貿易経済摩擦で衝突しつつも、安全保障環境の悪化、ソ連の脅威を意識し、ロン・ヤストップ同士の個人的信頼関係を築きながら、国際政治の中で日本の発言権を高めようと中曽根総理は試みたものと思われる。

その典型的事例がウィリアムズバーグ・サミット1983年5月、第9回先進国首脳会議における中曽根発言である.
ソ連が中欧向けSS20という中距離ミサイルを配備した事件について対処策につき討議する必要性に迫られたのである。

少し背景説明してみよう。
1976年頃から、ソ連は核搭載可能な中距離ミサイルSS20を162基(SS20は3個の核弾頭を装備し、移動式、射程5500キロメートルで欧州全域が射程に入る)を欧州向けに配置した。
これまでのINFと異なり、固形燃料なので短時間で発射可能、命中精度が格段に優れ、ヨーロッパの主要な核ミサイル基地を全滅させる能力を有するものであった。
戦略核と戦域核が分離することによって、地域的に使える核が出現したことにもなる。このSS20は上記欧州向けのほか中央アジアに90基、極東に144基を配備された。

当時NATO側は米国の核の傘に依存していたが、米国はミサイルでなく、F111戦闘爆撃機(航続距離1900キロ)、ポセイドンC3型SLBM(潜水艦発射ミサイル、射程4600キロ)を配備してきただけであった。
ところが、ソ連側は、新型の中距離爆撃機バックファイアーや中距離ミサイル、SS20やSS22,SS23等を次々と西欧目がけて配置し、戦域(中距離)核戦力比はソ連側の優位に急速に傾き始めた。
最大の脅威を感じたのは至近距離にある西独である。

当時の西独首相シュミットはソ連政府の副首相に会った際にも、「ソ連側がSS20配備プログラムを実現すると、西側は強硬な対抗手段を講じざるを得ない。なぜならこのようなミサイル配備は軍事・政治情勢を全面的に変えてしまうからだ。」とまず強く警告していた。〔ゴルバチョフ回顧録 1996〕
そこで、米国のウイリアムズバーグサミットの真の議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがパーシングII準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否か、であった。

中曽根総理にとっては、初めての7サミットであったため張り切っていた。
「相手が中距離核ミサイルを配備すれば、こちらも同様の措置をとる」といった相互主義的手法に賛成で前向きな姿勢なのはアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相であった。
フランスのミッテラン大統領はパーシング2の配備には賛成だがサミットは経済問題が中心の会議だから声明を出すことには反対の態度を示した。西ドイツのコール首相はミッテランに同調し、カナダのトルドー首相は消極的で慎重な姿勢をとり、会議はまとまらない雰囲気の気配を見せていた。

その時、中曽根総理は次の趣旨を述べたようだ。
「ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すために、あえてパーシングⅡの配備に賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示すことであり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開すべきだ。今や、安全保障は世界的規模かつ東西不可分になってきた。
日本は従来、この種ヨーロッパ問題の討議には沈黙してきた。しかし、私はあえて、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」と発言した。

これを聞いた首脳たちは、誰もすぐには発言しなかった。
そこで、間髪入れずにレーガン大統領が「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して決裂は避けられた。

その後、ゴルバチョフは回顧録の中で次のようにソ連の内情を正直に述べている。
「ウスチノフ国防相はソ連ヨーロッパ地域に配備されている短距離ミサイルが老朽化しているので更新する必要があるとブレジネフに報告した。だが真相は老朽化にあったのではない。
性能向上を目指す兵器研究の結果、距離、命中性能、制御性等、すべての特性で従来のものよりもはるかに優れたSS20ミサイルが製造可能となったのだ。
アンドロポフやグロムイコもこれがどんな脅威を与えるか良く分かっていた。だが、誰も西側の考えられる反応を真剣に考慮しなかった。これは軍産複合体の圧力で実施された許すべからざる軍事的冒険であった」〔ゴルバチョフ回想録下巻P69~71 新潮社 1996年2月〕

シュミットはソ連政府の副首相に会った際にも、「ソ連側がSS20配備プログラムを実現すると、西側は強硬な対抗手段を講じざるを得ない。なぜならこのようなミサイル配備は軍事・政治情勢を全面的に変えてしまうからだ。」と警告している。〔ゴルバチョフ 1996〕
つまり、シュミットの方がコールよりも国際政治をよく把握していたことになる。
その後、米ソの中距離核戦力(INF)交渉の過程でソ連の中距離弾道ミサイルSS20の「欧州では全廃、アジアでは半減」案が有力になった頃、中曽根元総理はアジア地域で米国の核抑止力が減退する事態を危惧し、レーガン大統領に書簡を送り、結局「アジア全廃」を実現させた。ロンヤス関係はこの時も団結力を発揮したのだった。

なお、本件INF交渉に関する中曽根総理とレーガン大統領の親書(当時極秘)の内容について別途解説するつもりである。.

かくのごとく、日本の安全保障をトッププライオリティに置いた中曽根元総理の行動がINF全廃条約に結びついた成果として、国際政治学者からも高く評価されている。
ウイリアムズバーグサミット参加首脳


(ウイリアムズバーグサミットの写真-外務省報道課提供)
さて、中曽根総理はマスコミのTVや新聞では「青年将校」の如く毅然として威圧感が感じられるが、会ってお話する機会を得てみると、寛容で立派な人格者であった。
イントロで触れたように中曽根総理はご多忙にもかかわらず水彩画を描くのを趣味にしていることは知っていたが
まさか自分が自筆の絵を頂けるとは思わなかった。

1977年、元総理が中曽根派の若手議員2名を同行し3日間シンガポールに滞在し、便宜供与も問題なく終了し、帰国の準備をしていた時のことである。頂いた絵はやや高い丘の上のホテルからシンガポールを見渡した風景の印象を軽いタッチで描いたスケッチであった。
その際「石河君はどこの出身かね」と聞かれて「愛媛の松山市です」と答えると「なるほどー。だから夏目漱石の坊ちゃんに似たところがあるのだね」述べられた。小生の遠慮のない発言を婉曲に表現しているのかなと気になったが、
「どこが似ているのでしょうか?」とは流石に聞き返せなかったことを覚えている。

海外で2回目にお会いしたのは、1990年9 月中旬、日米協会主催の夕食会に中曽根元総理が主賓として出席するためシカゴを訪問した時である。

シカゴ・オヘアー空港にてお出迎えした際、元総理より「明日の夕食会のスピーチの冒頭に何か現地の印象を入れつつ笑わせたいが具体的なアドバイスがあれば本日中に教えてほしい。」との依頼があった。

元総理が旅装を解き寛いでいるころを見計らってホテルを訪ねて小生の案の骨格を述べてみた。
「日程の最初つまり翌朝に、世界的にも有名なCME(シカゴ・マーカンタイル先物取引所)を見学するが、手ぶり身振りなど非常に面白いのでその印象を述べるのはどうか?また、先物取引は「江戸時代の堂島のコメ取引所が歴史もありメンションするといいと思う。」などの案をブリーフ申し上げた。
日米協会のブリーフと夕食会
シカゴにて日米協会のブリーフ
日米協会撮影
日米協会夕食会

日米協会夕食会(筆者が席を外して撮影)

(筆者が席を外して撮影)


元総理の苦心の作によるスピーチが日米協会夕食会にて行われた際、イントロの部分で万雷の拍手が米国人の間から沸き上がったことを覚えている。大政治家の素晴らしいスピーチには地味な準備と努力が隠れているものだ。
とにかく、中曽根元総理は非常な勉強家であった。健康にもよく留意する人物だけにもっと長生きすると思っていた。
残念至極!!

(了)
  1. 2019/12/01(日) 22:36:26|
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ローマカトリック教会の組織力と権威

ノートルダム大聖堂は何故フランス人の精神的支柱になっているのか?(その7)
  ――ローマカトリック教会の組織力と権威ーー

2019年11月24日 記

ローマカトリック教会の組織力と権威

ヴァチカンのフランシスコ教皇が23日来日した。ヨハネ・パウロ二世以来38年振りだというのは地理的に遠いこともあるが、日本のカトリック教徒が少ない(現在約44万人)という要因もあるかもしれない。
ヴァチカン市国の広さは日本の皇居よりも小さいが、教皇(法王)の影響力はとてつもなく大きい。何故ならば、ヴァチカンは現在183ケ国と外交関係を有し、教皇は世界中で13億人のカトリック教徒の頂点に立っているからだ。
フランシスコ教皇は特に核兵器廃絶を強く唱え、訪日日程の真っ先に長崎を選んだ。

同教皇が一枚の写真(長崎で被爆死した弟を背負い焼き場の前に立つ少年の姿)に強く心を揺さぶられたという話は有名。
(少年の写真)
長崎の焼き場に立つ少年

同教皇は24日午前、爆心地の公園で献花しスピーチし、その中で核兵器は人類に悲劇的な結果をもたらすとして世界のリーダーが核兵器禁止に向けて協力すべき重要性をアピールした。
ローマ教皇の発信力は大きくこの発言は全世界にWEBで伝えられた。

ちなみに、あのナポレオンでさえ「一人の教皇は20万人の兵士を連れた軍団に匹敵する」と評価していたといわれ、CIA元長官ウイリアム・ケーシーも「ヴァチカンの諜報機関は世界で最もよく情報を把握している」と述べているほどである。

このように教皇の発信力を支える情報収集力の源泉はその組織力にある。
大多数のフランス人がつい最近まで所属していたローマカトリック教会はフランス全体を地域ごとに編成されている。

その起源をさかのぼると、392年キリスト教がローマ帝国の国教になってから、司教区、教区、小教区などとピラミッド型に編成されたネットワークがフランス全体に形づくられていった。
このピラミッドの末端には、村や町の教会が住民の身近な存在として全国津々浦に存在することになる。

そこには、司祭がおり、住民の誕生から成人、結婚、出産、などの人生の節目に所定の儀式を行って精神生活に安定感を与え、死に際しても神のもとに送り出す役割を果たしてきた。
つまり教会は今日の市町村当局の如き存在であったし戸籍の管理なども教会がやっていたのである。
考えてみれば、日本でも先祖のルーツを探るとき頼りになるのはお寺である。お寺が檀家の生死を、所蔵の過去帳、石塔、墓石などによって親子関係を辿ることができる。

例えば、 (数多い石川家の中から、いつ石河家が出現したのか調べてみたことがある。横浜に実家を有する知人の母親が石川家の出身だとの縁で、横浜地区には「江戸時代に石河という姓で分家している者がいる」と教えられ、実地検分に出かけたことがある。結論だけ述べると、横浜市南区の弘誓院地蔵尊胎内文書の中で、日付も寛永十年(1633年)十一月弐拾四日と石河久右衛門の名前が残されているのが発見された。)

しかしながら、日本では、フランスの如き住民行政をつかさどる機関には至らなかった。
フランスの教会や修道院が千年以上にわたってフランス人の人生、生活を支配できたのは、やはり、キリスト教会こそが古代から中世、近代へと殆どすべての精神的遺産というか知的遺産というものを受け継いできたからである。

従って、カトリック教会が中世時代にもっともよく組織された全国的な準行政組織であったことから国王の重要な命令がしばしば大司教、司教、司教区内聖俗有力者という教会ルートで伝えられたのも不思議ではない。

中世史家の増田史郎は、ヨーロッパ中世世界を「国王と教皇という2つの中心を持つ楕円形の世界」と表現しているが、教皇と国王との関係をうまくイメージ化しているではないか。

しかしながら、ヨーロッパの発展に伴い14世紀ごろからその重心が地中海からヨーロッパ大陸の中央部に移ってきた。フランスの歴史学者フェルナン・ブローデルは「経済状態の発展と地理的条件が世界史において重要な役割を果たしている」ことを詳しく分析している。その代表作は「地中海」である。(拙著「風景の鼓動」3.港湾都市繁栄のプロセスP210より220までをご参照)

その趣旨を簡潔に要約すると、海上の交通網が発達し商船の活動領域が拡大してくるとヨーロッパの貿易の重心が地中海から大西洋に移動してきたことにより地中海に北半分と黒海が地図の基底部を形作り、ヨーロッパ大陸の中心が真ん中を占めるようになった。つまり、現代の私たちがイメージするヨーロッパ像に近いものになったと分析している。

「中世の光と影」を書いたフェルディナント・ザイプトも「ヨーロッパ人の世界像が13世紀後半から14世紀にかけて大きく変わった」と指摘している。
この頃フランス王国ではフィリップ4世などのもと国内の統合を進め世俗権力たる地位を主張するようになった。

1309年から1337年まで教皇庁はローマからアヴィニョンに移されたが、教皇はフランス王権に政治的にも一定の距離を置きつつカトリック教会の行政・財政組織をうまく築き上げている。高校生向けの世界史の教科書などには「教皇のバビロン捕囚」と表現されているが、文字通り「捕囚」と解釈すれば、歴史の実態を見誤ると思う。

しかし、それにしてもローマカトリック教権とフランス王権との対立軸がローマ・パリ間から、アヴィニョン・パリ間に移ったのは間違いない。
とはいえ、長期的視点から見ればローマ教皇の権威が下り坂に向かう分岐点だったかもしれない。
アヴィニョン教皇庁は1337年にローマに帰還するが、教皇を補佐する枢機卿の間に対立があり、フランス人枢機卿はローマを去って再びアヴィニョンに自分たちの教皇を擁立する事態になった。これを契機として教皇の権威も失墜した。1417年コンスタンツ公会議で新教皇が選出されて収束を見たが、もっと大きな問題で教皇の権威は下り坂となる。

つまり、フランス、ドイツ、英国などの国が国王の「主権」の下に、地域的諸権力が編み込まれる形で、領域的まとまりと民族的同質性をもって姿を現してきた。これらはまだ国民国家とはいえないにしても世俗的な主権国家と言えよう。これら地域主権国家はその主権国家の論理からしてローマ教皇の教会行政権が自国内に入り込んでしまうのに危機感を覚えるようになってきた。

フランスは1438年フランス領内の教会管理権はフランス王権に属すると宣言し、1516年ボローニャの政教協約でフランス国内の高位聖職者の任免権はフランス国王にあることをローマ教皇に正式に認めさせたのである。

かくして「国王と教皇という2つの中心を持つ楕円形の世界」は国王の円形がこの時期に大きく拡大され教皇の楕円形は縮小変貌したことになる。
(次回に続く)

  1. 2019/11/24(日) 23:09:08|
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